ここに愛がある

説教日:2015年4月19日
聖書箇所:ヨハネの手紙第一・4章7節ー11節


 ヨハネの手紙第一・4章7節ー11節には、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されています。
 「ヨハネの手紙第一」はイエス・キリストの十二弟子のひとりであり使徒であったヨハネが記した手紙です。新約聖書には、ヨハネが記した手紙が三つ収められていて、この手紙がその最初に出てくるので「ヨハネの手紙第一」と呼ばれています。
 ここでヨハネは自分が牧会している群れの信徒たちのことを、

 愛する者たち

と呼んでいます。
 ちなみに「牧会」ということばは、いわばプロテスタント教会の「業界用語」です。聖書はしばしば、神さまを信じている人々を羊の群れにたとえ、これを守り、導き、養い、育ててくださる神さまを牧者、羊飼いにたとえています。さらに、神さまがご自身の群れを守り、導き、養い、育てるようにと召してくださった人々のことが、やはり、牧者、羊飼いにたとえられています。それで、教会の指導者たちのことを「牧会者」と呼び、その働きを「牧会」と呼んでいます。この牧会の働きをするのは「牧師」と「長老」です。
 ヨハネが自分が牧会している群れの信徒たちに、

 愛する者たち

と呼びかけていることは、ヨハネの信徒たちへの愛を示すものです。それとともに、新約聖書の中ではこの「愛する者たち」(アガペートイ)ということばは、ある意味合いをもつことばとして用いられています。そのことは、このヨハネの手紙第一・4章7節ー11節に記されていますヨハネの教えからも汲み取ることができます。
 11節には、

 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されています。ここでヨハネは、神さまが「私たち」を愛してくださっているので、神さまの愛を受けている「私たち」もお互いに愛し合うべきであると教えています。そして、この「私たち」にはヨハネ自身も含まれていて、そこには何の区別もありません。ヨハネもほかの信徒の方々と同じように神さまの愛を受けており、それゆえに、お互いに愛し合うべきであるということです。
 ここには、神さまの愛を受けている者たちの共同体である教会があり、ヨハネもその一員であることが踏まえられています。その意味での愛の共同体である教会の信徒たちが、お互いに愛し合うことを支えているのは神さまの愛です。
 それで、ヨハネが群れの信徒たちに、

 愛する者たち

と呼びかけているとき、牧会者であるヨハネが信徒たちへの愛を表しているのですが、その愛は神さまから出ていて、神さまの愛によって支えられています。そして、信徒たちが牧会者であるヨハネを含めてお互いに愛し合うときの愛も、神さまから出ていて、神さまの愛によって支えられています。
 このことは、7節において、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。

と言われていることからも分かります。
 一般的なこととして言うのですが、王や国家の元首が一般の民衆たちの所に行って「お声」をかけると、かけられた人々はいたく感激します。そして、王や国家の元首の謙遜を讃えます。同じようなことは、宗教的な世界においても見られることです。しかし、ヨハネが群れの信徒たちに、

 愛する者たち

と呼びかけているのは、そのようなことではありません。イエス・キリストから直接的に召された使徒であるヨハネが特別に神さまに近い存在で、その神さまに近いヨハネの愛が、一般の信徒たち、いわゆる平信徒たちに注がれているということではありません。
 「愛する者たち」というのは上から目線ではないかと言われるかも知れませんが、それは日本語の翻訳の問題です。このことばは「愛する人たち」あるいは「愛する方たち」とも訳すことができます。そして、使徒であり牧会者であるヨハネが、自分の牧会する群れの信徒たちを「愛する人たち」あるいは「愛する方たち」という(ことばが意味する)ように呼んでいたということは十分ありえることです。
 確かに、ここでヨハネがお互いに愛し合うべきことを記しているのは、ヨハネが牧会している群れの信徒たちの間から愛が失われていく危険があったからであり、そのことをヨハネが憂いてのことであったと考えられます。そうではあっても、ヨハネは自分には問題がなく、それは信徒たちの問題であるというような言い方をしてはいません。あくまでも「私たちは」と言って、自分自身をそのうちに含めて、ともに原点に立ち返ろうとしています。


 11節では、

 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と言われていました。ここで、

 神がこれほどまでに私たちを愛してくださった

と言われているときの神さまの愛とはどのような愛なのでしょうか。それは9節と10節に示されています。そこには、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されています。
 ここでまず注目したいことは、ギリシア語の原文では、9節は、

 ここに、神の愛が私たちに示されたのです

ということばから始まっていて、「神の愛が私たちに示された」ということが強調されています。また、10節は、

 ここに愛があるのです。

ということばから始まっていて、やはり、「愛がある」ということが強調されています。[注]

[注]「ここに」と訳されていることば(エン・トゥートー)は、ヨハネの手紙第一には14回出てきて、「このことに(おいて)」とか「このことによって」というような意味を伝えています。新改訳では「それによって」(2章3節、5節、3章16節、19節、4章2節、13節)、「そのことによって」(3章10節、5章2節)とも訳されています。それは、日本語訳がこのことばによって導入される部分を後から訳していることによっているからでしょう。

 9節では、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

と言われています。
 ここでは、神さまがご自身の「ひとり子」を「世に遣わし」てくださったことが示されています。この「ひとり子」とはイエス・キリストのことです。ここで「ひとり子」と訳されたことばは、より直訳調に訳しますと「ただひとりの御子」となります。これによって、「御子」が父なる神さまとの特別な関係にあることが示されています。
 そのことを示しているヨハネの福音書1章18節には、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。
 ここで「父のふところにおられるひとり子の神」と言われているときの「ひとり子」と言われている方がヨハネの手紙第一・4章9節で、

 神はそのひとり子を世に遣わし

と言われている「ひとり子」に当たります。ヨハネの福音書1章18節では、この「ひとり子」が「」であられることが示されています。そして、この「ひとり子」が「父のふところにおられる」と言われていることは、この「ひとり子」が父なる神さまからの愛を一身に受けておられる方であり、父なる神さまにとって最も大切な方であられることを意味しています。
 ですから、ヨハネの手紙第一・4章9節で、

 神はそのひとり子を世に遣わし

と言われているのは、神さまがご自身の愛を限りなく注いでおられて、ご自身にとって最も大切な方である御子をこの世にお遣わしになったということを意味しています。
 9節では、続いて、

 その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。

と言われています。これもより直訳調に訳しますと、

 その方によって私たちが生きるようになるために

となります。神さまがご自身が愛しておられる「ひとり子を世に遣わし」てくださったのは、「その方によって私たちが生きるようになるため」でした。
 このことは、これに先立って、ヨハネが7節ー8節で、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

と述べていることを受けています。
 ここで「愛のある者」と訳されていることばは、これよりは動的な意味を伝えていて、直訳では「愛している者」ですが、これですと、誰かが「愛している人」という意味にも取られかねません。これは、その前で、

 私たちは、互いに愛し合いましょう。

と言われていることとの関連で、互いに愛し合う愛をもって「愛している人」のことです。その意味で「愛に生きている人」のことです。ここではさらに、そのような人は、

 みな神から生まれ、神を知っています。

と言われています。この場合の、

 神を知っています。

ということは、「神から生まれ」た「神の子ども」として、

 神を知っています。

ということです。「神から生まれ」た者は神さまとの愛の交わりのうちに生きるようになります。父母から生まれた子どもは、自分を生んでくれた父母の愛に包まれて生きるようになります。それと同じことです。「神から生まれ」た者は神さまの愛に包まれて生きるようになるので、神さまを知っているのです。
 そればかりではありません。「神から生まれ」た者は自分だけではありません。同じヨハネの手紙第一・3章1節には、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。

と記されています。ここには「神の子ども」が出てきますが、これは複数形で「神の子どもたち」です。この「神の子どもたち」はみな、父なる神さまから限りなく深い愛を受けています。そうであれば、その「神の子どもたち」は、兄弟姉妹として、互いに愛し合うはずです。4章20節には、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

と記されており、5章1節には、

イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。.,0

と記されています。
 このようなことを受けて、9節では、神さまがご自身が愛しておられる「ひとり子を世に遣わし」てくださったのは、「その方によって私たちが生きるようになるため」でしたと言われています。ですから、「私たちが生きるようになる」ということは、私たちが愛のうちに生きるようになること、私たちが神さまの愛に包まれて、神さまを愛するとともに、互いに愛し合うことにおいて生きるようになるということを意味しています。
 そして、9節では、

 ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

と言われています。神さまの愛は、私たちが生きるようになるために、ご自身が限りなく愛しておられ、ご自身にとって最も大切な方である御子をこの世に遣わしてくださったことにおいて私たちに示されたというのです。
 ヨハネはその福音書の3章16節において、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と述べています。ここに出てくる「永遠のいのち」は、時間的にいつまでも続くいのちを意味しています。しかし、それだけではありません。いのちの質においても、先ほどお話ししましたように、神さまの愛に包まれて、神さまを愛するとともに、互いに愛し合うことにおいて生きるいのちのことです。
 ここでは、ご自身の「ひとり子をお与えになったほど」の神さまの愛が示されていますが、同時に、

 御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく

と言われていますように、人が「滅びること」が踏まえられています。これは、これまでお話ししてきましたことから推測されますが、神さまの愛を退け、神さまを愛することも、お互いに愛し合うこともなくなるような状態、言い換えますと、神さまをのろい、お互いをのろい、自らをのろうような状態にあることを意味します。
 そればかりではありません。今お話ししたことは、滅びる人のあり方ですが、これには神さまの聖なる御怒りが伴っています。これにつきましては、ヨハネの手紙第一・4章9節に記されていることからは分かりませんが、10節に記されていることから知ることができます。

 ヨハネの手紙第一・4章10節には、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されています。
 ここでは、先ほどお話ししましたように、冒頭で、

 ここに[このことに]愛があるのです。

と言われていて、続いて、それがどのようなことかが示されています。それは、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。

ということです。
 ここで、

 私たちが神を愛したのではなく、

と訳されていることは、直訳調に訳しますと、

 私たちが神を愛したことではなく、

となります。これは、

 このことに愛があるのです

と言われているときの「このこと」は、私たちが神さまを愛したことではないと言われています。つまり、私たちが神さまを愛したことに愛があるのではないということです。この場合、私たちが神さまを愛したこととはどのようなことなのかが問題となります。ここでは、このことが、

 神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされた

ことと対比されています。このような対比を考え合わせますと、ここでは、私たちがイエス・キリストの十字架の死にあずかって、罪を贖われて神の子どもたちとされる前の私たちの状態のことが取り上げられていると考えられます。また、9節に、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

と記されていることでも、神さまが「そのひとり子を世に遣わし」てくださったときには、私たちは霊的に死んでいました。
 そうしますと、その時には、私たちは神さまを愛したことはなかったということになります。それが新改訳の

 私たちが神を愛したのではなく

という訳が示していることです。
 私たちは神さまを愛したことはなかったということは、私たちがこのように言われて、通常、考えることとは少し意味合いが違っています。私たちは、神さまを愛したことはなかったけれども、憎んだこともなかったと考えます。そして、だから別に何の問題もないとも考えます。けれども、聖書は、そのように教えてはいません。というのは、神さまは天地創造の御業の初めから人をご自身との愛の交わりに生きる者として、愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになって、限りない愛を注いでおられるからです。
 神のかたちに造られている人は、その神さまに対して罪を犯して、神さまの愛を退けるようになってしまいました。これが人の罪の本質です。これは、自分とはまったく関係のない人を、知らない人として無視することとは違います。自分を生んで、愛を注いで育ててくれ、変わることなく愛を注いでくれている親を親とも思わないというようなことです。ルカの福音書15章11節ー32節には、一般に「放蕩息子のたとえ」として知られているイエス・キリストのたとえ話が記されています。その11節ー13節には、

ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。

と記されています。神さまに対する人のあり方は、まさに、この「」のようなものです。父がまだ生きているのに、死んだことを前提とする相続財産を要求して、それさえもらえれば、もう父には用はないとばかりに、父の許を去って行ってしまうようなことをしています。これが神さまに対して罪を犯している人の状態です。
 聖書は、神さまは聖なる方であられ、ご自身の義に従って、人の罪をおさばきになるということを示しています。そのさばきによって、先ほど触れました、ヨハネの福音書3章16節に出てきましたように、人は「滅びる」ようになります。これが、ヨハネの手紙第一・4章10節で、私たちは神さまを愛したことがなかったと言われている、私たちのかつての現実です。
 ローマ人への手紙5章8節には、

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と記されています。これは、ヨハネの手紙第一・4章9節に、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

と記されていることを思い起こさせます。ローマ人への手紙5章では、さらに、10節に、

もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

と記されています。ここでは、8節で「私たちがまだ罪人であったとき」と言われている状態にあった私たちのことが、神さまの「敵であった私たち」と言われています。ヨハネの手紙第一・4章10節で、私たちは神さまを愛したことがなかったと言われている、私たちは神さまの「敵であった」のです。
 けれども、このことが示されているのは、私たちをいたずらに恐れさせるためではありません。それは神さまがそのような状態にあった私たちを愛してくださって、ご自身の御子イエス・キリストを遣わしてくださったことを示してくださるためです。同じように、ヨハネの手紙第一・4章10節では、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。

と言われています。私たちは神さまを愛したことはなかったのですが、神さまはそのような私たちを愛してくださいました。そして、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました」。
 ここには「なだめの供え物」が出てきます。そして、それは「私たちの罪のため」の「なだめの供え物」であると言われています。この「なだめの供え物」ということば(ヒラスモス)は、「私たちの罪」に対して、神さまの聖なる御怒りが注がれていることを踏まえています。
 イエス・キリストが十字架につけられたときのことを記しているマルコの福音書15章33節ー34節には、

さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

と記されています。これに先立って25節には、

 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

と記されています。この午前9時から12時までの3時間は、イエス・キリストの処刑を見にきた人々のあざけりとののしりで満ちていました。けれども、12時から3時までの3時間には全地が暗やみに包まれていました。この暗やみは神さまのさばきを表象的に表しています。それは私たちの想像を絶する出来事で、この暗やみの中で何が起こっていたかは描写されてはいません。というより、描写のしようがないのです。ただ最後にイエス・キリストが、

 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」[わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか]と叫ばれた

ということだけが記されています。このことは、この暗やみの中で、父なる神さまはご自身の「ひとり子」、ご自身の愛を限りなく注いでおられ、ご自身にとって最も大切な方である御子に、「私たちの罪」に対する聖なる御怒りによる刑罰を執行しておられたことを意味しています。
 このようにして、神さまのひとり子が、私たちに代わって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を受けてくださいました。これによって、私たちの罪は完全に贖われており、私たちの罪に対する刑罰はすべて終わっています。
 これがヨハネの手紙第一・4章10節で、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と言われていることです。
 ヨハネは、

 ここに愛があるのです。

と言っています。
 クリスチャンの間ではよく知られているお話ですが、ある女の子のお母さんは、顔がひどいやけどを負っていて引きつっていました。そのためにその女の子は「お前のお母さんはお化けみたいだ」と言われていじめられました。ある時そのことをお母さんに話したときに、お母さんはその女の子に謝りながら、その子がまだ赤ちゃんだったときに家が火事になってしまい、お母さんはその子を抱きかかえて逃げたときにやけどを負ってしまったことをお話ししました。そのことを知った女の子は、そのお母さんの顔がお母さんの自分に対する愛の現れであることを悟りました。
 8節と16節には、

 神は愛です。

と記されています。このことばは誰でも知っています。けれども、その意味も分かっているとは限りません。ヨハネが言っているのは、その神さまの愛は、ご自身に敵対していた私たちの罪を完全に清算して贖ってくださるために、ご自身が限りない愛を注いでおられる御子を「私たちの罪のため」の「なだめの供え物」として遣わしてくださったことに現れている愛であるということです。
 そればかりではありません。私たちの愛を歪めているのは、私たちの罪の自己中心性です。神さまはその「私たちの罪のため」の「なだめの供え物」としての御子が成し遂げられた罪の贖いに基づいて、私たちの罪を赦してくださり、私たちを罪からきよめてくださいます。これによって、私たちはもはや罪に対するさばきを受けて滅びることがなくなっただけでなく、私たちのうちに本来の愛が回復されるようになりました。イエス・キリストの使徒であるヨハネも、このような神さまの愛から出た罪の贖いにあずかって、愛を回復されています。それで、自分自身を含めてのこととして、

 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

と教えることができたのです。


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